参考までに


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Posted by ねこちゃん on 2004/06/11 21:19:15:

In Reply to: Re[2]: 練習したのに失敗しました Posted by 赤色 on 2004/06/11 18:58:06:


    > ねこちゃんへ
    > プレゼンは経験に基づく話ではない為、自らの溢れる気持ちで話すことはできず、淡々と読み上げ、私の場合心から言葉を出すことが難しいように思います。ただの説明のプレゼンはどうしたらいいのでしょう。

    あがり症なのが気掛かりのようですね。
    あなたと同じぐらいに私もあがり症です。
    子供の頃、国語の時間の朗読はドキドキものでした。
    心臓の音が耳まで聞こえるぐらい。
    しかし、あがりが意識の集中をもたらすことに気がついてからは快く受け入れています。
    何故なら、あがっていない時は、熱意のこもったスピーチになっていません。
    冷静な分だけ、さめた表現になっているのでしょう。
    あがりは、いつもあなたと同じように私にもあります。
    しかし、あがりに対しての理解の仕方が違うだけです。
    理解は自発的なものです。
    自らの体験を通して見い出す時、深く理解できるようになるでしょう。
    それまであせらずに取り組んで下さい。
    「説明のプレゼン」についてですが、文面を読むのは聞き手に読んで聞かせている状態なので、読んでいる人も聞いている人も退屈なものになってしまいます。
    話す言葉と文章にした言葉では、文章にした言葉の方が堅苦しい表現になってしまいます。
    内容を深く理解していれば、説明する順序に従い簡潔に要点を文面に書いておき、要点の間をうめるように即興でスピーチするのが効果的です。
    どうしても、文面を読む以外に無理な場合は読み上げる文章を短くまとめながらたたみかけるように構成していきます。
    参考までに岩波文庫「柳 宗悦 茶道論集」があります。
    少し掲載しておきます。
    音読しても聞き手を引きつける魅力を持っている文です。
            「茶道を想う」
    彼らは見たのである。何事よりもまず見たのである。
    見得たのである。すべての不思議はこの泉から湧き出る。
    誰だとてものは見ている。だがすべての者は同じようには見ない。それゆえ同じ物を見ていない。ここで見方に深きものと浅きものとが生まれ、見られる物も正しきものと誤れるものとに分かれる。見ても見誤れば見ないにも等しい。誰も物を見るとはいう。だが真に物を見得る者がどれだけあろうか。その少ない中に初期の茶人たちが浮かぶ。彼らは見たのである。見得たのである。
    見届けているゆえに彼らの見た物からは真理が光る。
    どう見たのか、じかに見たのである。「じかに」ということが
    他の見方とは違う。じかに物が眼に映れば素晴らしいのである。


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